このブログを読んでいるちーちゃんは、何歳ですか?
8歳? それとも12歳になっている?
12歳なら、今日の話は「げ、きもい」と思ってしまうかも(汗)
でも、よかったら最後まで読んでくださいね。
ちーちゃんが生まれたころ、子育てに関する本を読んでいると、
「子どもをかわいがって、かわいがりすぎるようなことはない。」
と、そこに書かれていました。
ぼくは思わず「これだ!」と思い、膝をたたきました。
あまりかわいがりすぎると、過保護になってよくないこともあるかと、
ちょっと心配していたのです。
かわいがりすぎても何も問題はない、と書かれたその本を読み、
ぼくは何か通行手形を得たような気分になりました。
そして湧き出るぼく自身のあなたへの感情にしたがって、
自然体で、とことん、時間をささげよう、かわいがろうと決めました。
あなたを「徹底的に」かわいがることに、抵抗がなくなりました。
ぼくにとってあなたを「かわいがる」とは、
あなたといっしょにたくさんの時間をすごすことです。
そして、ふたりでいろんな町に出かけ、
いろんな風景やモノや人に出合うということです。
また、泣いているときは、あなたをあやしつつ、
よく見て、なぜ泣いているかを考え、対処し、
それでもわからないときは、泣き止むのを、待つことでした。
たくさんの絵本を何度もよみ、世界のものがたりに一緒に触れることでした。
あなたに向かって、語りかけることでもありました。
たくさんのおしゃべりや語り合いをたのしむことでした。
そしてまだあなたが話せないときにおいてさえ、ひたすら話しかけるぼくに、
いろんな表情で、声の色で、しぐさで、あなたは応えてくれました。
公園で小石拾いやお絵かき(地面への)に熱中するあなたをひたすら待ち、
ターザンロープウェイを1時間以上も飽きずに繰り返すあなたを待つことも、
かわいがるということだったと思います。
いつでも、どこでも、あなたの思い通りにする。
そうやって、かわいがってきました。
そうやってかわいがった先に、なにがあったかをぼくは知っています。
ちーちゃんとふたりで道を歩くとき、車や自転車との衝突を避けるために、
車道側にいつもぼくがいるように気をつけていました。
角を曲がるたび、または道を渡るたび、
体を入れ替え、つなぐ手を、右手から左手へと、また左手から右手へと、
おたがい、ひんぱんに移しました。
5歳になったあなたは、そういったとき、
ごく自然に、ぼくの左手に右手を差し出し、
次の交差点を渡って、もし左に曲がれば、あなたは車道側にぼくを歩かせ、
ぼくの差し出した右手を、流れるような動作で、左手で握ってきました。
なにも考えることなく、あらかじめ示し合わせることもなく、
ふたりでそれができていました。
ここに生まれたのは「あうん」の呼吸だったと思います。
かわいがるなかで、ちーちゃんが何をしたいか、何を思っているかを、
ぼくのほうがずっと考えてきたと思っていたのですが、
いつの間にか、ぼくがなにを考えているか、次にどういう行動にでるかを、
あなたのほうが理解するようになっていたのです。
そこに生まれた「あうん」の呼吸でした。
心が通じたと感じました。
親子で「あうんの呼吸」とか「心が通じる」なんて言うのは、恥ずかしいよね。
あなたに引かれてしまうかもしれませんね。
ぼくはあなたを、これ以上はないというくらいにかわいがってきて、
それでもまだ足りないと思っています。
もっと、もっと、かわいがりたいと思っています。