ちいさな洞窟

娘との日々

「おいしい」と言うけれど

「パンコントマテ」という不思議な名前のレストランが、ぼくらの行きつけのお店でした。呪文のことばのような、変わった響きの名前ですよね。ぼくが「お昼はどこで食べようか?」と聞くと、「パンコントマテ!」というように、あなたもお気に入りのお店でした。いま初めてしらべましたが、「パンコントマテ」はスペインの定番料理の名前のようです。何かの「おまじない」ではないんですね…。
 
自由が丘にあるこのイタリアン・レストランに、おもに水曜日、ランチを食べに通っていました。特に幼稚園に入る前の3歳と4歳のころ、水曜日は毎週ふたりで食事をしましたから、このレストランを行きつけと定めて、通いました。ぼくらはまさに常連でした。いま思い出しましたが、そういえば、このお店のことは、お母さんが妊婦のときにひとりで食べに行ったことがきっかけで、ぼくは知ったんですね。3人でも何度か食事をしましたよ。ばぁばを連れて来たこともあります。
 
お店は地下にあります。自由が丘駅近くの通りに面した入口からはいり、かなり急な階段を手をつないで降りると、そこが、ほの暗い、落ち着いた雰囲気のレストラン。狭く、窓もないので、隠れ家のようです。60歳くらいの、感じの良い給仕のおばさんや、厨房のおじさんが毎回、「いらっしゃいませ~」と笑顔を向けて出迎えてくれます。
 
あなたとはいつも向かい合って座りました。あなたは靴を脱いで、正座して座布団を敷いて座りましたね。テーブルが高かったので、それでちょうどよい高さになりました。カウンターで食べたこともあります。シェフが忙しそうに調理するのがすぐ目の前にみえました。お店で流れている音楽はかならずモダンジャズです。音を聴いて楽器の種類を当てるクイズをしましたね。オルガン、トランペット、サックス…楽器の名前も少しずつ覚えてきましたね。
 
あなたは毎回、ミートソース・スパゲティとオレンジジュースを注文しました。うん、まさに「鉄板」です。たくさんの種類が書かれたメニューを示して「たまにはカルボナーラはどう?」「このボンゴレ、おいしそうだよ?」などと伝えても、あなたは一顧だにせず、まったくブレませんでした。「ミートソース“スタベッキー”にする!」と。そしてランチセットの皿として、毎回、ブレッドを選びました。食べるのは毎回いつも同じもの。食に関して一途なんですね。ほかの料理にはまったく興味がないようでした。ところでいつからかブレッドにバターが付いてこなくなり、あなたはがっかりしていましたね。
 
ぼくはいつもキノコか鶏肉のドリアを食べました。ときどき、たらこスパゲティも。ドリアを小皿に分けて「おいしいよ。どうぞ食べてごらん」と言うと、あなたはたいてい一口たべて「うん、おいしい」と言います。でも、もう一度そのお皿に手を伸ばすことはなかったように思います。「うん、おいしい」と言うけれど、あまり気に入らなかったんでしょうね。そういった場合でも「まずい」「おいしくない」とは言わず、「うん、おいしい」と言うところが、ちーちゃんらしい気づかいです。実は、それに似たようなことが何度もあったように思います。残念ながら具体例がいま浮かびませんが、そういった「慎重な言い回し」をする場面が、うん、他にもけっこうありました(そういった感度は、どこで磨いたのでしょうか)。

ミートソース・スパゲティは3歳のころには一人前を残さず食べていたと思います。4歳になると、ブレッドの二切れも含めて、ぜんぶ食べました。まわりのお客さんがせわしなく食べるなか、ふたりでゆっくり時間をかけてランチを楽しみましたね。毎回、ぼくはサングリアやグラスワイン(白)を飲みたかったけど、そこはガマンしました。なぜって、ランチのあとは公園であそんで、そのあとはあなたを抱っこして帰るのですから、体力を残しておかないとね。ちょっとでも酔うと体がだるくなるので、お酒はガマンです。
 
給仕のおばさんとも会話をするようになりました。「よく食べるわねーっ」と毎回、驚かれました。子ども用のカチューシャをプレゼントしてもらったこともありましたね。帰りはレジでお店のスタンプを押してもらい、それを貯めて会計を割引きしてもらったこともあります。
 
パンコントマテにこんど行くときは、いろんな種類のスパゲティにトライしてみましょう! きっとほかにも気に入るメニューがあるはずです。